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豪姫と大蓮寺

大蓮寺は豪姫の菩提寺

豪姫は、天正2年(1574年)に前田利家公と正室まつの間に生まれ、生後間もなく豊臣秀吉の養女となりました。
秀吉の猶子であった備前国の戦国大名・宇喜多秀家公の妻として嫁ぎ、慶長5年(1600年)に起こった関ヶ原の戦いで、西軍に属した秀家公と共に改易されました。秀家公は薩摩に潜伏し、島津氏に匿われましたが、慶長7年(1602年)に引き渡され、息子二人と共に慶長11年(1606年)に八丈島に流罪とされました。
豪姫は秀家公と生き別れになりました。

慶長12年(1607年)頃、豪姫は兄である前田利長公に引き取られて金沢に移り住み、利長公は豪姫に化粧料として1500石を与えました。豪姫は金沢西町に居住しました。

大地に咲く牡丹の花のように豊麗であった豪姫は、寛永11年(1634年)5月に死去。享年61。
戒名は樹正院殿命室寿晃大禅定尼。

 

 

大蓮寺本堂の内陣の格天井


大蓮寺本堂の内陣の格天井は、宇喜多氏の紋が中心にあります。秀家が好んで用いた「児」の旧字「兒」が使われており、主に旗印に使われていました。
この紋の周りには楽器を手にした天女が舞い、蜻蛉(とんぼ)や揚羽蝶(アゲハ蝶)の紋が取り巻いています。この紋は宇喜多氏の重臣や親族などの紋。豪姫に従って金沢に来た中村刑部や一色主膳です。これらの紋が現在も豪姫の死後も力強く守り続けているのです。

 

豪姫のお位牌と念持仏の聖観音


大蓮寺の本堂には、豪姫の位牌がまつられています。位牌には、豪姫の戒名である樹正院殿命室寿晃大禅定尼と書かれています。位牌は、豪姫が死去した後に作られたものです。秀家の位牌も並んでいますが、先代住職が新しく作られました。

念持仏の聖観音は、御厨子の中に納められています。この御厨子の鍵は船型をしており「大悲船」の文字が彫られています。豪姫が亡くなられてから約40年後の延宝4年(1676)に家臣たちが、姫の果たせなかった想いを船に表して作ったものとされています。
「大悲船」とは、聖観音が乗る救済の船であり、”苦海から渡し舟で導いてくれる”という意味です。豪姫は「大悲船」に乗って秀家公と息子二人と再会できることを願っていました。

 

豪姫の肖像画


豪姫が八丈島の秀家と息子たちのもとへ送ったとされる自身の肖像画があります。
生き別れた夫と息子たちに対する深い愛情を持ち続けた豪姫は日々、八丈島に流罪となった秀家と秀高・秀継の無事を祈りました。
豪姫は、自分の姿を見せたいという思いから、絵師に描かせた自分の肖像画を荷物の中に紛れ込ませて八丈島に送りました。その肖像画の写しが、大蓮寺にあります。
綺麗な色で描かれた肖像画は、実は額の部分は色落ちしています。その理由は、幼い息子たちが涙を流しながら母の顔に触れることで、安心を得ようとして、毎日毎日、額の部分を手で撫でたためだと言われています。

 

宇喜多秀家と豪姫の供養塔


大蓮寺墓所には、豪姫の墓はありません。豪姫の墓は金沢野田山墓地、利家公とお松の方の近くにひっそりと建っています。
菩提寺である大蓮寺がお守りしています。

大蓮寺には秀家公と豪姫の記念碑があります。
豪姫と秀家公、お二人の五輪塔の記念塔を揃って境内に建立することは大蓮寺の永年の悲願でもありました。
西の山門を入った墓地に建立されたもので、高さは約2.5メートルほど。向かって右側に「尊光院殿秀月久福大居士」(秀家公)が、その左に「樹正院殿命宝寿晃大禅定尼」(豪姫)が睦まじく並んでいます。関ヶ原の合戦で引き裂かれた二つの魂は、永い歴史を経てようやく此処に並んで納まりました。
記念碑は、秀家公の八丈島墳墓と豪姫の野田山墳墓をそれぞれ模したものです。

 

豪姫のレリーフ

レリーフとは、美術の技法の一つで、平面に形を浮き立たせるように彫り込んだり、盛り上げたりした彫刻のこと。
平成6年(1994)に豪姫の360回忌の際に、墓所整備とともに西門を再建し、その門前に石像の豪姫レリーフを開眼しました。
秀家や我が子の無事を、数珠を持って合掌し祈る豪姫の姿を描いています。