八丈島と宇喜多秀家
八丈島とは?
八丈島は、伊豆諸島の火山島で、東京都心から南方287kmの海上にあります。
東山と西山のふたつの火山が接合したひょうたん型をした島です。
八丈島流人第一号となった
宇喜多秀家
宇喜多秀家は、関ヶ原の戦いで敗れた後、いったん美濃の山中に逃れ、やがて船で薩摩の島津家に落ちのびました。
3年後、秀家の潜伏が幕府の耳に入り、島津家への迷惑を憚った秀家は幕府に自首しました。島津忠恒や妻豪姫の兄である前田利長の懇願で死罪を免れ、駿河国の久能山へ幽閉されました。
しかし慶長11年(1606年)に流刑となり、子二人と家臣10人と共に八丈島に渡りました。八丈島流人第一号として歴史に名を残しています。
秀家は、八丈島に到着した時に「浮田」という名字を名乗って号を「久福」とし、高貴な身分のために他の流人に比べて恵まれた境遇であったとも伝えられています。
しかしそれでも生活は苦しく、嵐で八丈島に立ち寄った福島正則の家臣から酒を分けていただいたり、八丈島の代官からご馳走を賜った際には、飯を2杯いただき、3杯目はお握りにして家族へのお土産にされたというような話が残っています。
また、秀家は島で水汲女という現地の方と結ばれたという記録もありません。一途に豪姫を思い続けたとされています。
元和2年(1616年)には、秀家は赦されて、前田利常から10万石を分け与えられるという話を受けましたが、秀家はそれを辞退して八丈島に留まられました。
秀家は八丈島で50年間を過ごしました。
明暦元年(1655年)11月20日、4代将軍家綱の御代まで生きられ、84歳で亡くなるまで一度も本土に戻ることはありませんでした。
豪姫よりも長生きをされて、関ヶ原の合戦を戦った武将として、一番最後まで生き残った人物となりました。
宇喜多秀家の墓所は「宇喜多秀家の墓」と呼ばれ、東京都八丈町大賀郷にあります。
墓は7m四方の玉石垣に囲まれた大名風の墓で、一族墓の中央に五輪塔形の墓石が立っています。
夫や子供たちに対する
豪姫の強い愛情
宇喜多秀家の正室である豪姫は、秀家に同行して苦労を共にすることを望んだとされますが、許可は降りませんでした。
夫が八丈島に流刑となった後も夫を見捨てることなく、実家の前田家や秀吉の養女としての立場から、夫や子供たちの助命や援助を求め続けました。
加賀3代藩主・前田利常(豪姫の弟)が江戸幕府の許可を得て、1614年から1,2年おきに白米70俵、金子35両、衣類・雑貨・医薬品などを八丈島に送り、秀家らの生活を支えました。医師や乳母など、身の回りの世話をする人までも同行させたと聞きます。
あるとき豪姫は、絵師に描いていただいたご自身の肖像画を荷物の中に入れ、八丈島に送りました。その肖像画は今も秀家の子孫の方々が所有し、その肖像画の写しは、豪姫の菩提寺である大蓮寺にございます。
豪姫自身は娘とともに、加賀金沢に移りました。
夫や子供たちと再会することは最後まで叶いませんでした。
八丈島の浮田家への前田家からの援助は、秀家が亡くなられた後もなんと200年以上も明治まで続かれたということです。
豪姫の夫や息子たちへの愛情は、子々孫々受け継がれていったのです。
八丈島で暮らした
宇喜多秀家とその子孫
八丈島で暮らし、多くの子孫を残しました。
宇喜多秀家の子孫は「浮田流人」と呼ばれました。
彼らは「宇喜多」や「浮田」や「喜田」などに名字を変え、合計20家の分家がありました。
明治時代になると、前田家の計らいによって宇喜多一族(7つの分家)を船で迎えに行き、東京で生活する屋敷を用意しました。
八丈島に残る
宇喜多秀家と豪姫の記念碑
宇喜多秀家と豪姫の記念像は、八丈島の西岸、八重根港に近い船戸鼻にある溶岩流の黒い岩場が広がる、岩海が南原千畳岩(南原千畳敷)にあります。
平成9年、岡山城築城400年を記念して、岡山城の方角を仲睦まじく眺める宇喜多秀家と正室・豪姫の座像が建立されたものです。
記念碑は海を向いており、背景には八丈富士が見えます。夕日が美しい場所でもあります。
「宇喜多秀家住居跡」は、秀家の墓近くの民家敷地内にあります。
住居跡といっても石垣の一部が残り建物はありませんが、入口には大きなソテツ(蘇轍)があります。
四百年以上を経た今も秀家の血脈はこのソテツの如く枝分かれし、多くの子孫に受け継がれているという説明板があります。このソテツの横には、岡山城の石も飾られており、秀家が故郷を偲んだことを示しています。
宇喜多秀家のゆかりの地
関ヶ原 宇喜多秀家陣地跡
宇喜多秀家は、関ヶ原の戦いにおいて、西軍の副総帥として最大の兵力(約1万7千)を動員されました。
その陣地は、南天満山の麓にある天満神社の境内。