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羽柴秀吉(豊臣秀吉)との関係

羽柴秀吉と豪姫の関係

太閤秘蔵の子から備前国の妻へ

豪姫は前田利家とまつの四女として生まれましたが、数え2歳の時に羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)との仲を深めるため、子のなかった秀吉夫婦の養女として出されました。(秀吉46歳、寧々27歳とされる)
豪姫は、秀吉や正室の寧々に、太閤秘蔵の子として寵愛されていました。
秀吉は戦場からも豪姫に向けて度々手紙を送っていました。
天正16年(1588年)に秀吉の猶子であった備前国(現・岡山県)の戦国大名で岡山城主・宇喜多秀家の妻として嫁ぎ、大坂中之島邸に入輿(にゅうよ)しました。
豪姫と秀家は兄妹同然に秀家のもとで育ったのです。
豪姫は14歳、秀家は16歳でした。
秀家は秀吉の側室「おふく」の息子です。おふくは夫をなくし女城主として岡山城を守っていました。

豪姫は「備前御方」と呼ばれ、文禄2年には「南御方」と改称しました。
豪姫を娶った宇喜多家では豪奢な生活のために経費がかさみ、財政不如意となって家中分裂の原因をつくりました。

豪姫は秀吉から離れても変わらぬ忠誠と愛情を示し、秀家と共に備前国を治めました。

 

羽柴秀吉が豪姫に送った手紙

関白にしたいほどの愛情と期待

豪姫が養女として秀吉夫婦に迎えられた後、秀吉は合戦中の戦場からも度々手紙を送ったり、寧々に綴っています。
その中には、豪姫が男であれば関白の地位を与えたいとか、おね殿(高台院/寧々)より上の官位に就かせたい、などの内容が含まれていたとされています。
これは、秀吉が豪姫に対して深い愛情と期待を抱いていたことを示しています。